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マリナレーダ

MARINALEDA

エコ建築
Construccion Inteligente
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マリナレーダ(Marinaleda)は、スペインアンダルシア州セビリア県ムニシピオ(基礎自治体)。コマルカ(郡)としてはシエラ・スール・デ・セビリアに属する。 面積は25km2であり、2014年の人口は2,748人。社会民主的・協同組合的な自治体であると自己定義しており、公式サイトでは「集産経済のための共産主義」と説明されている。 メディアなどからは「共産主義者のユートピア」と呼ばれることもある。

面積 : 25 km² (2500 Ha)  標高: 205m

人口 : 2,748 人 (2014年)   人口密度: 109.92 人/km²

自治体首長 :  (2011年)フアン・マヌエル・サンチェス・ゴルディージョ

 

 自治体としてのマリナレーダは、西側のマリナレーダ地区、東側のマタレドンダ地区のふたつに分かれており、東西に走るリベルタ通りが両地区を結んでいる。マリナレーダ地区には診療所、図書館、農場労働者組合、成人センター、食品加工工場などがあり、マタレドンダ地区には自治体庁舎、学校、保育所、文化センターなどがある。両地区に挟まれた地域には自然公園があり、屋外円形劇場、サッカー場、労働者スタジアム、市立屋外プールなどがある。

1931年のマリナレーダの人口は2,318人であり、うち投票権があったのは317人にすぎなかった。1931年4月12日の選挙では君主制支持者が勝利したが、5月31日の選挙では共和政支持者が勝利した。スペイン第二共和政時代最後となった1936年2月16日の選挙ではスペイン人民戦線が勝利した。1930年代後半のスペイン内戦開始時、クーデターを支持した軍隊がビセンテ・セハス・モレーノ市長、市長の息子を含め、少なくとも30人の住民を殺害した。内戦終結後、マリナレーダの住民は貧困・飢餓・弾圧に苦しんだ。貧しい住民は農園地からオリーブドングリの実を拾い集めて飢えをしのいだ。

1960年代にはスペインで工業化が開始され、マリナレーダからスペイン国内では特にカタルーニャ地方、またドイツフランススイスなどの他国への移住が奨励された。1975年に総統のフランシスコ・フランコが死去し、彼が設立した独裁制は代表制民主主義に道を譲った。1970年代後半のマリナレーダは失業率が60%を越え、極貧状態にあった。1977年、農場労働者組合スペイン語版)(SOC)のマリナレーダ支部が設立された。1978年1月には農場労働者組合が土地所有闘争を開始し、町から32km離れたオスナとロス・コラレスの間にあるボカティナハの農場を2日間占拠したが、治安警察によって制圧されて労働者組合の何人かが投獄された。

フランコ死去後の民主化移行期、1979年に初の総選挙が開催された。マリナレーダでは労働者統一団体スペイン語版)(CUT)が得票率76%、中道右派の民主中道連合が22%を得て、労働者統一団体が自治体議会の11議席中9議席を得た。労働者統一団体は自らの政治思想をスペイン共産党(PCE)よりも左に位置づけているが、マルクス・レーニン主義トロツキー主義の団体ではなく、無政府主義を行動で実践する団体である。

30歳のフアン・マヌエル・サンチェス・ゴルディージョが民主化後初のマリナレーダ首長に就任した。新市議会は町にあるいくつかの通りや広場の名称を左翼の英雄の名前に変更している。例えば、フランコ政権で大臣を務めたムニョス・グランデスの名を冠していた通りは、キューバ革命を成立に導いたチェ・ゲバラの名を冠した通りとなった。スペイン広場は国民広場となり、フランシスコ・フランコ広場は、元チリ大統領マルクス主義サルバドール・アジェンデの名を冠した広場となった。19世紀のカディス市長で無政府主義者のフェルミン・サルボチェアスペイン語版)の名を冠した通り、「アンダルシアの父」と呼ばれる作家のブラス・インファンテの名を冠した通りも誕生した。

民主化移行期以後の10年間、マリナレーダの住民は土地を手に入れるために、アンダルシア地方の空港、駅、政府所有施設、農場、宮殿などを占拠し、道路を封鎖し、デモ行進などを行い、ハンガーストライキを行った。猛暑だった1980年夏にはアンダルシア地方各地でストライキが勃発したが、マリナレーダの人々は賃金上昇や古い雇用制度の厳格な規定を要求し、8月17日から700人が9日間のハンガーストライキを実行した。アンダルシア地方各地に小規模のハンガーストライキ、ゼネスト、占拠やデモ活動が広がり、労働大臣とセビリア市民政長官はアンダルシア地方の失業対策として2億5,300万ペセタの支援を約束した。この行動によって、マリナレーダは全国紙に取り上げられてスペイン中に反響を起こした上に、世界的な注目を集め、自治体とゴルディージョ市長の知名度が上昇した。この行動の成功が土地闘争の激化につながり、「そこで働く人々の土地」というスローガンの下で大土地所有者の所有地の占拠が行われた。1984年、インファンタード公爵の所有地である1,200ヘクタールのエル・ウモーソ農場(スペイン語版)に灌漑設備を設置することを求めて、人々はコルドビーリャ湿地を30日間占拠し、このことが後の自治体による農場取得を容易にした。1985年には人々が占拠した土地が少なくとも100か所にも及び、日数では90日間を超えた。これらは様々な訴訟につながった。翌年にセビリア万国博覧会を控えた1991年には、アンダルシア州政府がエル・ウモーソ農場をインファンタード公爵から購入し、州政府によって自治体に譲渡された。マリナレーダは1990年代を通して闘争を続け、スペイン銀行の占拠、高速鉄道AVEの走行の妨害、マラガ=コスタ・デル・ソル空港セビリア空港への侵入、サン・テルモ宮殿やラジオ局のカナル・スールの占拠、シエラ・スールとセビリアでの道路封鎖などを行った。

1997年には灌漑設備がエル・ウモーソ農場全体に拡張され、農場を共同で開墾するためにマリナレーダS.C.A.協同組合が設立された。3年後の2000年には食品加工工場が設立され、協同組合によって供給されるピキーリョ(赤ピーマン)、豆類、アーティチョーク、オリーブなどを加工している。その後にはオリーブ・オイルの搾油機も導入された。食品加工品の生産量は増加し続け、それにともなって雇用者数も増加し続けている。2008年の世界的な経済危機は2010年にはスペインやギリシャなど南ヨーロッパの国々に大きな影響を与えた。アンダルシア州では失業率が30%にまで上昇したが、マリナレーダではこの時期でさえほぼ完全な雇用を実現しており、2013年時点の失業率は5-6%だった。マリナレーダの地域社会で実行され、経済発展と住民の幸福の面で良い結果が得られている社会的・政治的制度は、国内外のメディアの目をマリナレーダに惹きつけている。

2011年にはマドリードのプエルタ・デル・ソル広場で起こった5月15日の占拠運動(15-M)を起点として、スペイン各地で既存政党に対する抗議運動が行われた。これ以前から類似の行動を起こしていたマリナレーダは15-Mで発言力を高め、テレビ、新聞、アンダルシア州議会など数多くのメディアにゴルディージョ市長が登場して発言した。2011年末にサルバティエラ公爵がマリナレーダに対して挑発的な発言を行うと、マリナレーダ市民はサルバティエラ公爵の土地を占領した。サルバティエラ公爵は自らの発言を撤回してマリナレーダ市民に謝罪し、実際にマリナレーダを訪れてゴルディージョ市長と面会した。ゴルディージョ市長は2012年までに7度投獄されて2度暗殺未遂に遭っている。

2012年8月、200人以上の労働者が国防省の所有地を18日間にわたって占拠し、他の自治体首長に対して債務を返済しないよう呼び掛けた。 また、左派の共産主義労働組合であるSOC-SATとともに、カディス近郊のカルフール、エシハのメルカドーナという、スーパーマーケットチェーン2店舗の商品で食料品を略奪し、それらの商品を非営利団体のフードバンクに寄贈したり、集合住宅や市民会館を占拠しているホームレスに分け与えた。新聞では一面を飾り、テレビではトップニュース扱いを受け、ロイターや国際的ニュースワイヤによって世界中に拡散された。

この不法行為によって、ゴルディージョ市長は「ロビン・フッド市長」、「スペインを危機から救うドン・キホーテ」、「スペインのウィリアム・ウォレス」などと呼ばれるようになり、マリナレーダは世界中のメディアに取り上げられた。

ゴルディージョ市長とマリナレーダはさらなる脚光を浴び、メディアからの取材依頼が殺到したが、ゴルディージョ市長らの首謀者は7か月の懲役刑を受けている。2012年9月には衣料品チェーンのH&Mがゴルディージョの握りこぶしをデザインしたTシャツを作り、2012年冬にはゴルディージョがチリゴタ(カディス地方発祥の風刺的フォークソング)に歌われた。

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