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​映画化された イエズス会のミッションの繁栄と陥落
イエズス会の伝導村分布図
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​映画化された イエズス会のミッションの繁栄と陥落
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日本最強の経営者と言われる
カルロス・ゴーン
  経営不振にあった日産自動車を買い取り、2年で黒字にして、ルノー社と日産の最高トップとなったが、今度は経営どん底にあった三菱自動車の株を買い取り最高責任者(CEO)となる。
 
​16世紀、南米のジャングルの中に、奴隷狩りから逃げてきたインディオたちを改宗して、ヨーロッパの職人仕事を教え、建築から、農業、畜産、そして工業を指導し、ヨーロッパに輸出できる工業産品を生産するまでとなった伝道村が存在した。

​イエズス会のミッション -伝道村

​Misiones Jesuiticas - la Reduccion de los Jesuitas

グアラニー族のための文化学園 


 南米のパラグアイには、世界遺産に指定された「トリニダとヘススの遺跡」があります。
 この遺跡は、1608年にスペインからやってきたローマカトリック教の一派であるイエズス会の宣教師たちが現地のグアラニー族を改宗させ、そして彼等を文明的なクリスチャンに教育しようと創り上げた文化学園とも言える「伝道村」なのでした。

 パラグアイの首都アスンシオンから南へ200キロほどいった地帯は現在ミシオネスと呼ばれていますが、イエズス会士はこのあたりに住んでいたグァラニー族といわれる部族の組織的改宗を目指し、村を作ってグァラニー族の人々を集め、キリスト教の教えを説くとともに、生産活動を行いました。これがイエズス会の伝道村つまり「ミッション」(スペイン語では「レドゥクシオン」)です。

 そこでは、ジャングルを拓いたところに、ヨーロッパに見られるような堅固で立派な教会堂が
そびえたち、それを中心に、学校、工場、宿舎、食堂、厨房、倉庫、住宅などの建物がきれいに並んだ村があり、その回りにはバナナやマンディオカなどの畑が作られていました。このような数千人が暮らす規模の村が10も点在し、1620年までの間に4万人に及ぶインディオがこれらの村で暮らすようになったそうです。(パラグアイのみ)しかし、これは現在のアルゼンチン国ミシオネス州からウルグアイ、ブラジルのイグアス地域にまで及び10万人を超えるグアラニーたちが20箇所の伝道村で豊かなヘスイタ帝国を築き上げていました。

 当時、南米におけるポルトガルの植民地では沢山の奴隷を使ったプランテーション運営が盛んで、グァラニー族は、バンデイランテスと呼ばれる奴隷狩り商人によって捕えられ、家畜のように売り買いされていましたが、奴隷制度がなかったスペイン領のパラグアイでも彼等のビジネスの恩恵に預かり、スペイン領土内で奴隷狩りをすることを黙認していました。そのためグアラニー族たちは奴隷狩りから逃れるために、保護を求めて喜んで「ミッション」に集まってきたのでした。

 村では宣教師が政治・経済・宗教のいっさいを指導しましたが、「ミッション」がもっとも大きな成功を収めたのはその経済活動でした。住民たちは、主食であるマンディオカ(キャッサバ芋)のほか、タバコ、サトウキビ、綿、マテ茶といった商品作物をも栽培し、牛、馬の牧畜も行われていました。しかし、さらに信じられないような、本が印刷され、ギターやバイオリンなどの楽器からタイプライターまで製造し、ヨーロッパに輸出され、沢山の富を築いていました。

 ロ-マ教皇の庇護のもと、植民地行政管も許可なくミッシオンに立ち入ることができなかったため、まさに小独立国のようなもので、インディオたちの指導者が育ち、かれらの民主的な運営の中で、収益は、村全体の共有の財産とされ、個人が所有することは許されない、一種の原始共産主義ともいえるシステムの中で目を見張る繁栄をみせたのでした。
 そしてこれらの伝道村の繁栄は、抵抗の少ない改宗へも結びつき、こうした南米の伝道村は幾つかの世代に受け継がれていき、150年ほど続いたのでした。

 


イエズス会について

 イエズス会は、1534年、スペインの騎士道精神に富んだ武将として活躍した軍人イグナティウス・ロヨラによって設立された修道会です。ロヨラは、プロテスタントとの戦いで瀕死の重傷を負ったことが彼の人生の転機となり以後、霊的体験を高め、学問に励み、そして、43歳のときにパリ大学の学生らと7人でキリストに習って清貧・貞潔のうちに隣人への奉仕に生きることを生涯の使命とした「モンマルトルの誓い」をたてますが、これがのちのイエズス会となりました。

 それまで宣教活動をしていなかったカトリック教会は、プロテスタントの登場によって、勢力が脅かされ、またルネッサンス(文芸復興)の時代を迎えたヨーロッパでは、カトリックの腐敗と堕落を批判する宗教改革運動が爆発的に広まっていたこともあり、カトリック教会は、内的刷新が求められていたのでした。そんな中でイエズス会は、風紀を正し、生活を浄化し、世界を神のために獲得しようという希望に燃えていたので、ローマ法王は彼等を世界宣教に派遣しました。イエズス会は、法王の十字軍、世界宣教の主な担い手として活躍していくことになり、信仰、学識、体力、ともに優れた神父たちが、まだ見ぬ未知の大陸に福音を伝えることを夢見て、若い命を賭けて、広大な海原(うなばら)を渡っていきました。その中で、フランシスコ・ザビエルは日本にやってきましたが、他方多くの宣教師たちは南米の好戦的なインディオたちの地へ入っていったのでした。



イエズス会が築いた楽園「ミッション」

 イエズス会を創立したロヨラの奉仕の精神と情熱は大変なもので、そして彼等がインディオたちを指導して南米に築き上げた「ミッション」(伝道村)はまさに情熱と努力の賜物として出来上がった「地上の楽園」でした。

 しかし、このようなことは、牧場主、植民地政府、スペイン、ポルトガルの利益に反するものでした。
 スペイン領土では奴隷を労働力として開発を奨励するポルトガル側と違い、エンコメンデ-ロというシステムで、住民から厳しい徴収を地方ごとに義務付け、スペインの収穫畑として南米を監督していたため、インディオと共に文明を築くなどというのは一種の革命行為のようなものがありました。

 このため、こうしたイエズス会のミッションの繁栄はやがてポルトガルの奴隷商人や、それの利用者である開拓者や地主、そしてスペインの行政当局から激しい反発を招くことになり、さらに、イエズス会とその「伝道村」はスペインとポルトガル両国の領土争いに振り回されました。

 


グアラニー戦争

 1750年、スペインとポルトガルの両国はマドリード条約を締結し、ポルトガルはラ・プラタ地方から手を引く代わりに、ウルグァイ川以東の地をスペインから手に入れることになりました。その結果、ウルグァイ川以東の地にあった「ミッション」に住むグァラニー族はすべて村を放棄してウルグァイ川の西に移住することを迫られました。

 現地のイエズス会士はこの決定に強く反対しましたが、ローマのイエズス会本部は条約の決定に従うよう指令を発しました。スペイン国王はイエズス会総長に圧力をかけ、アルタミラノ枢機卿をアスンシオンに派遣して、条約の履行を促しましたが、グァラニー族の反抗は激しく、スペイン・ポルトガ両国はついに連合軍を送り込み、力づくで「ミッション」の壊滅させました。
 この「グァラニー戦争」で連合軍はグァラニー族を敗走させましたが、それは同時に、イエズス会の終幕にもつながりました。ポルトガル・スペイン両国内では、あいついでイエズス会士の追放が行われ、1768年にはパラグァイのすべての伝道村からイエズス会士が姿を消しました。そして、イエズス会そのものの活動も、1773年の教皇命令によって幕を閉じたのです。

 現在、パラグアイ南部の一帯と、アルゼンチンのミシオネス州、ブラジル南部リオグランデ州、そしてウルグアイなどには、イエズス会がグアラニー族たちを改宗して作った「地上の楽園」の跡が、遺跡としてジャングルの中に残されています。

 そして彼等の考えや文化、宗教、伝統などを変えてしまったイエズス会の宣教とは、結局、力ある者の制圧であり、自分達の宗教を押し付けるエゴではないのかという、人道的な問題が問われる面がありますが、実際には、もしこのイエズス会の宣教活動と伝道村がなければ、グアラニー族たちは奴隷にされて、結局強制的に西洋文化に同化させられ、改宗させられていたのではないかと考えられます。そしてこの場合は人権も選択権もないわけですから最悪の結末であったと思います。

 しかし、伝道村のインディオたちはスペイン政府とイエズス会本部の命令に反抗して「グアラニー戦争」を起したように、選択ができる状態にあったわけですから、改宗も自由な選択の結果として受け入れられてきたようです。

アルゼンチンのミシオネス州のイエズス会の遺跡には、「この地を守るためにポルトガル人たちと戦った勇敢なグアラニー族のおかげでここはアルゼンチンの州として現在に至っている」という意味の記念碑が立てられているそうですが、彼らはアルゼンチンのためではなく、自分達が奴隷にされず自由に生きるための選択として戦ったのだろうと推測されます。

 しかし、注目したいのは、これらの遺跡は、異人種と異文化の人間がお互いを受け入れあうことによって、仲良く共生できる社会を築くことは可能だということを実証している点です。そして、人間はたとえ血統や民族が違っても教育と訓練によって同じような技術や知識を身につけそれを活かした生活をすることができるのだということです。
 ジャングルの中に中世期のヨーロッパの建築物が点在し、先住民たちがヨーロッパ以上の工芸技術や生産性を身につけて暮らしていたことは、人間がもつ習得力と情熱をもった教育のすばらしい可能性について認識させられます。

 しかし同時に、これらを破壊したのは、そういう理想卿の繁栄を妬み、また、インディオたちを教育しないことで使いやすい労働力として維持しようとするエゴイストな人間たちであ
り、彼等が権力を使ってこういう搾取と利権維持の歴史を守ってきたという悲しい事実を見せているのではないのでしょうか。


優秀な人材を生み出すイエズス会の学校

 イエズス会は現代においても使命感をもった人間を世に送る教育をするところとして知られています。日本では上智大学がイエズス会の代表的な教育機関となっていますが、世界中いたるところにイエズス会の学校はあり、その卒業者たちは世界各地でリーダーとして活躍しています。

 ひとつの例として、日本で話題の実業リーダーであるカルロスゴーンは、ブラジルのアマゾン地方(Rondonia)に生まれたレバノン系移民の子供でしたが、16才の時に親元を離れてひとりでレバノンに行き、そこにあるイエズス会系のノートルダム高校に入ります。そしてこの学校で彼にとって一番大きな影響となった「ミッション」を受けたといわれます。

 それは、神から命を授かり、この世に生かされている自分には、生きている間に何をすべきかを定められた「ミッション、使命」があるということです。経営者という仕事についていなければ、教師になっていたというゴーンは、異国の日本に暮らし、日本人とのコミュニケーションを大事にしながら日産の再建を「ミッション」と感じて激務に励んだのですが、この姿は、同じイエズス会の「ミッション」としてジパング(日本)で布教に一生を捧げたフランシスコ・ザビエルと共通したものが多いとみる人もいます。

   しかし、南米の中に作られたイエズス会のミッションがあまりにも成功したため、当時の国家権力と地元の資本家たちに叩かれてつぶされてしまったように、現代のイエズス会のユートピアンたちもそれぞれの時代や世界の国家権力や地元の資本家たちに追い出されてしまう悲しい現状が続いています。 

  理想的な、自由で平等の組織や社会というものは、まだまだ実現できるように世界が成熟できないでいるのでしょうか。

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