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ファクンド・
カブラル

FACUNDO CABRAL

   ラテンアメリカのスーパースター的哲学者、作家、シンガーソングライター、講演者
自称ファーストクラスの放浪者

ファクンド・カブラル 

     ホテルに暮らすホームレス

    家も、土地も財産ももたず、ずっとホテルに寝泊まりし、140か国以上の国でギターをかき鳴らしながら、渋い声で自作の愛と幸せのメッセージを歌ってあるくアルゼンチン生まれのボーダーレスミュージシャンがいた。彼がアルゼンチンのサッカースタジアムオでコンサートをすれば5万人のファンが集まるスーパースターなのに、彼は歌うよりも、自分の経験を通した人生哲学を若者にぶつける。彼のテーマは、神と、女性と、幸せと、楽しく生きるべき人生についてである。彼は名声も富もお金も興味がなく、彼にとって大事なのは、自由と愛で、それが幸せの基本であるという価値観だ。

 アルゼンチンでは天才的な人間が生まれる環境があるが、ヨーロッパ系白人の血統が強いためか、ラテンアメリカではアルゼンチンは嫌われる傾向がある。しかし、キューバの工業大臣にもなったりした革命家のゲバラは、ラテンアメリカを含め若者たちの間で世界的なスターになっているし、そしてラテンアメリカの中高年の間で尊敬され、女性から高い人気をもつ教祖的スターにファクンド・カブラルがいる。

ファクンド・カブラル(1937年5月22日 - 2011年7月9日)は、アルゼンチンのシンガーソングライター、トルバドゥールで文筆家。そのウイットに富んだ体制批判や哲学的な語り口でラテンアメリカやヨーロッパで多くの人々に愛された。

 彼の出生の前日に父親が家族を捨てていなくなる。母親は8人の子供を抱えてラ・プラタ市にあった父親方の祖父の家で暮らしていたが、最初の数年を過ごした後、子供たちをつれて放浪の旅へ、4年かけてアルゼンチンの最南の町ティエラ・デル・フエゴへたどり着くがこの間に4人の子供が死んでいった。

 貧しい暮らしの中で、ある時、女や子供でも仕事を与える大統領が現れたことを聞いて、9歳になるファクンドは、家を飛び出しペロン大統領に直訴するために、3000キロにおよぶ長い旅路の後、ブエノスアイレスの大統領府までたどり着く。守衛の詰所へ保護された後、偶然に通りかかった大統領と夫人エバ・ペロンに車の中からなんの用だというのに対して、仕事が欲しいといったところ、その時エバ・ペロンが「やっと物乞いではなく、仕事を求める人間に会えた。」と発言したと言われる。この出会いのおかげで彼の母親は仕事を得、家族はより首都に近いTandilの町へ移住し、母は小学校の掃除婦として給料を保証され、学校に家族で寝泊まりすることを許可される。

 少年期は苦しく荒れた時期を送り、小学校にもいかず9歳の頃から飲酒も始め、14歳の時に乱暴さから少年刑務所に収監される。そこでイエズス会のシモンという牧師に読み書きを習い始め、3年で小・中学の課程を修了。その時に世界の文学にも接することになった。刑期終了の一年前に脱獄し各地を流転。様々な職に就きながらも、自由人として歩み始める。

地方の町で歌を歌い始める。1954年「Vuele bajo, y empezó todo」を作曲。1959年にはアタウアルパ・ユパンキやJosé Teodoro Larraldeにあこがれギターも弾きフォルクローレを歌い始める。マル・デル・プラタへたどり着きホテルの求人に応募したところ、オーナーが彼がギターを持っているのを見て歌手として採用された。1970年に「No soy de aquí, ni soy de allá」を発表し大ヒットする。この歌は9ヶ国語で発売されAlberto Cortez、フリオ・イグレシアス、Pedro Vargas、ニール・ダイアモンド等にカバーされた。

1976年に軍政下では反体制の歌手として知られたファクンドは亡命を余儀無くされ、メキシコに渡りそこを拠点に作曲活動を続け159ヶ国で公演した。

1984年には軍事政権から民政移管したアルゼンチンへ帰国、各地で公演し、1987年にはブエノスアイレスのフェロカリル・オエステにあるサッカースタジアムで3万5千人(APの報道によると5万人とも)を集めるコンサートを催した。1994年にはArberto Cortesと共に世界ツアーを行った。晩年ほとんど目が見えない状態でも依頼があるとテレビ出演や、弾き語りコンサートなどに出掛けて、74歳で最後のコンサートがあったニカラグアイで事業家と間違われて殺されたが、彼はいつもシンプルでボエミアンなスタイルを変えることなく、いつも変わらない、愛と感謝のメッセージを語っていた。

 イエスやガンジー、サイババ、マザー・テレサ等の影響を受けた。混乱と暴力の時代の反体制の歌手であったが旧軍事政権に対する物理的抵抗活動をした記録は残っていない。自分の事を「凶暴なくらい平和主義者である」とか、「ファーストクラスのホームレス」「形而上学的無政府主義者-アナキスト」、と語っていたが、ペロンは仕事をくれたので、悪口は言わず、ウルグアイのモヒカ元大統領はアミーゴだった。文学ではノーベル文学賞受賞者のホルヘ・ルイス・ボルヘスやウォルト・ホイットマンを好んでいた。そしてノーベル平和賞にノミネートされたこともあった。精神的な豊かさを求め、妥協せず社会の歪を糾弾しつつもユーモアを忘れる事のない、まれな哲学師匠だった。

伊藤玄一郎

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